関心を表出する技術

現代のウェブを発展させるうえで欠かせない要素は何か、といえば私は「関心(interest)」であると答える。ウェブは当初、単なるドキュメントのネットワークでしかなかったが、そこに検索エンジンやソーシャルウェブサービスが備わることでハイパーリンクを通じた関心のネットワークへと変貌した。ウェブという分散システムにとって関心はユーザーに内部リンクを貼らせる餌である。ユーザーにとってみれば、このような関心を持つ他のユーザーへと出会えるという期待がウェブにあるから使うのである。

しかしながら、ユーザーに関心を表出させる技術は現状ではまだまだ未発達である。当初のウェブではハイパーテキストの発信が関心の表出の唯一の技術だったが、この方法はユーザーの表現能力と技術力に強く依存しており、万人向けではない。次に登場した検索サービスは、ユーザーに関心をクエリという形で表出させ、類似の関心によって表現されたと思われるハイパーテキストを提示することで敷居を下げた。しかしそれでも、ユーザーの表現能力に依存しているという点では変わらなかった。その後、ウェブ2.0の宣言のもとでユーザー参加型のウェブサービスが主流のウェブサービスになるに伴い、ソーシャルブックマークへの追加やリツイート、いいね!ボタンといったごく最小限の行動によってユーザーに関心を表出させるようになった。

今までの関心表出技術は基本的にユーザーに求める能力水準を引き下げるという方向で進化してきた。その点では、現在のウェブは格段に関心を表出させやすくなった。しかし果たして、その方向性はユーザーにとって良い効果をもたらすのだろうか?私はこの問いには否定的である。ユーザーの関心は単一的なものではなく、複雑な体系を秘めており、その体系の表出を支援する技術がいまのウェブには足りないのである。

性急に結論を求めさせるウェブ

ウェブ上の討議において、議論の参加者が提出された意見を正しいか間違っているかの二択ですぐに評価しようとする状況をよく見る。その姿勢は議論を有益にしようとする真面目な態度から生じているのかもしれない。しかしながら提出された意見に対してその正しさを即断してしまうのは、議論の先鋭化を招き、参加者を感情的にさせてしまう恐れがある。

討議には様々な段階がある。同じ関心を持つ人々が集う段階、各々の意見を提出する段階、提出された意見を整理する段階、整理された意見をもとに議論を行う段階、議論を得て最終的な合意を得る段階。討議の中で答えを出すのは最後の段階であって、意見が提出された直後にその妥当性を問う必要はない。むしろ大事なのは、まず意見の多様性を認識することであり、自らの意見が全体のどこに位置するかを把握することである。

しかしながら、ウェブではこの段階を飛ばして、意見の提出から議論へとすぐに移ってしまう。典型的なのは掲示板での議論である。そこでは単線的な情報提示の仕方であるゆえに、いま議論がどの段階を経ているかをユーザーは認識することができない。Twitterはより極端で、そもそも全体としてどんな意見が提出されているかを確実に把握する手段がない。特定個人の意見の文脈さえそこでは失われる。つまりウェブサービスアーキテクチャによって、適切な議論の進行が阻害されるという事態が引き起こされているのである。そのようなウェブサービスを使う限り、まともな議論を行うのは困難である。

このような事態に対処するためには、理想的には適切な議論進行を促すアーキテクチャを備えたウェブサービスの開発が必要である。しかしながらそのような素晴らしいサービスはいつ誰が作り上げるかは皆目わからない。

ひとまずウェブで議論をしようとするユーザーが心がけるべきことは、結論を求めすぎず、他人の意見の正否を即断せず、冷静に自分の意見との差異を述べることであろうか。






考えるには「あなた」が必要である

思考は言葉を必要とする。そして言葉は受け取り手を必要とする。人間が言葉を生み出すとき、自分自身がまず受け取り手となり、言葉の意味を認識し、新たな言葉を生み出す。言葉の連なりが思考の輪郭を描き出し、思考を再構成する。思考は彫像のように一度生まれればそのまま存続するものではなく、生命のように常に動き続けなければ存続できない。たとえ内省であっても、思考は常に誰かとの対話なのである。その意味で、思考は一人でも始めることができる。

しかし、内省による思考では語り手と読み手の間の解釈は同一であり、そこから言葉を連ねても新たな発展は見込めない。考える人間が生きる環境は常に変化し、人間の暮らしはその環境に適合するならば、思考も人間の一部として変化することが要請される。変化することを止めた思考はやがて思考として成り立たなくなり、考える主体の人間性を失わせる。

思考が発展していくためには他者による異なる解釈によって新たなパターンの言葉が生起する必要がある。他者による解釈はそれ自身が思考であるから、他者による解釈は考え合うことと同じである。多くの思考が集い、その思考の在り方が多様であればあるほど、思考の可能性は広がっていく。だから考えるためには一人でいることよりも誰かとともに行うことが好ましい。

たいていの人間は他者とともに生活しており、他者とともに思考することは一見正しいように感じる。しかしここで重要なのは、物理的に人間同士が集まっていることと、思考が集い協働するとは必ずしも一致しないということである。ラッシュアワーの電車の中に詰め込まれた人々は、試験管の束と同じである。表面的には接していても中身が交わることがなく、互いに化学反応を起こすことはない。このような物理的な人間の集合に思考の集合が伴わないのは、環境によって互いの思考を遮断することを強いられているからである。本来人間の生活を望ましいものにするために設計された環境は、逆に人間を環境に沿うように作り変えていく。つまり考えていくのに望ましい状況を作り出すためには、ありのままの生活に身を委ねるのではなく、思考の多様性を保つ不断の努力が必要なのである。

思考の多様性を保つような場は、その性質ゆえに人々の間で共有される。そして多数の人間がそこで思考し続けなければ、場として存続することはできない。つまり、思考の多様性を保つ努力は集団による努力であり、公共性を伴う努力である。アーレントはその場を「世界」と読んだ。

思考のための世界を生み出すために、人類はメディアを生み出した。メディアのあり方は時代とともに変わっていき、それとともに考える人間の構成や思考の様相は変わっていく。大事なのは、いまここで自分が何を考えていて、考えることを維持するのにどんなメディアに頼っているのかを確認すること、そしてそのメディアは自分の思考の発展を約束してくれるのかを問うことである。それがメディアリテラシーの本質的な役割である。メディアリテラシーは個人の能力ではなく集団の能力であり、その能力の行使によって人間同士が考え続ける場がいつの間にか考えることを止めさせる場に変わるのを阻止する。

考え続けるには二重の意味で他者が必要だ。一つは思考そのものを動かし続けるために、もう一つは思考が存続し続ける場を確保するために。

偶然にもこの記事を読んでいるあなたは、いまどうやって考え続けているのだろう?それを分かち合うことは、考える場づくりの第一歩となるだろう。対話してくれるならば私は嬉しい。

難民の受け入れについて

私の住む街には沢山の外国人が住んでいる。しかし、彼ら彼女らが日本で生活していくなかで何を感じ考えているかはこちらからはうかがえない。話す言葉も暮らす場所も、そこにあるのに私には読み解くことができない。だからもし彼ら彼女らが何か問題を抱えているとしても、私は全く知ることはできない。

難民の受け入れについて簡単に意見を表明することはできない。ただ、いまの日本の人口動態からいって、外国人居住者が増えていくのは避けられないことになろうかと思う。国際関係と内政の理由を併せて解消する形で、難民受け入れは進むだろう。

その時にまず問題になるのは、地理上では同一空間に暮らしているのに、人間として対話する空間を欠いていることにある。その状態では、そこにあるはずの問題を日本人と外国人の間で共有することができない。ディスコミュニケーションはいずれ社会を壊す歪みとなる。

難民受け入れをするにしても、互いの文化や言語の差異から起こるディスコミュニケーションを解消し、対話の場を生む環境が無ければ、悲劇に終わるだろう。

公共圏という言葉に触れる

公共圏(公共性)という言葉が私にとってとても重要な言葉であると今日初めて知った。私はこれまで、学びのコミュニティを生み出すことを探究しつづけてきた。しかし、何を学ぶか、なぜ学ぶ必要があるのかということについて、核となる思想がなかったように思う。単純なスキル習得とは違う、より自分の人格に結びつく何かのために、誰もが学ぶことができる空間を求めてきたように思う。その何かが公共圏であり、公共圏を成立させるための環境整備を、意見を表明するために必要な知識の学習という観点からこれまで私は探求してきたのだ。