考えるには「あなた」が必要である

思考は言葉を必要とする。そして言葉は受け取り手を必要とする。人間が言葉を生み出すとき、自分自身がまず受け取り手となり、言葉の意味を認識し、新たな言葉を生み出す。言葉の連なりが思考の輪郭を描き出し、思考を再構成する。思考は彫像のように一度生まれればそのまま存続するものではなく、生命のように常に動き続けなければ存続できない。たとえ内省であっても、思考は常に誰かとの対話なのである。その意味で、思考は一人でも始めることができる。

しかし、内省による思考では語り手と読み手の間の解釈は同一であり、そこから言葉を連ねても新たな発展は見込めない。考える人間が生きる環境は常に変化し、人間の暮らしはその環境に適合するならば、思考も人間の一部として変化することが要請される。変化することを止めた思考はやがて思考として成り立たなくなり、考える主体の人間性を失わせる。

思考が発展していくためには他者による異なる解釈によって新たなパターンの言葉が生起する必要がある。他者による解釈はそれ自身が思考であるから、他者による解釈は考え合うことと同じである。多くの思考が集い、その思考の在り方が多様であればあるほど、思考の可能性は広がっていく。だから考えるためには一人でいることよりも誰かとともに行うことが好ましい。

たいていの人間は他者とともに生活しており、他者とともに思考することは一見正しいように感じる。しかしここで重要なのは、物理的に人間同士が集まっていることと、思考が集い協働するとは必ずしも一致しないということである。ラッシュアワーの電車の中に詰め込まれた人々は、試験管の束と同じである。表面的には接していても中身が交わることがなく、互いに化学反応を起こすことはない。このような物理的な人間の集合に思考の集合が伴わないのは、環境によって互いの思考を遮断することを強いられているからである。本来人間の生活を望ましいものにするために設計された環境は、逆に人間を環境に沿うように作り変えていく。つまり考えていくのに望ましい状況を作り出すためには、ありのままの生活に身を委ねるのではなく、思考の多様性を保つ不断の努力が必要なのである。

思考の多様性を保つような場は、その性質ゆえに人々の間で共有される。そして多数の人間がそこで思考し続けなければ、場として存続することはできない。つまり、思考の多様性を保つ努力は集団による努力であり、公共性を伴う努力である。アーレントはその場を「世界」と読んだ。

思考のための世界を生み出すために、人類はメディアを生み出した。メディアのあり方は時代とともに変わっていき、それとともに考える人間の構成や思考の様相は変わっていく。大事なのは、いまここで自分が何を考えていて、考えることを維持するのにどんなメディアに頼っているのかを確認すること、そしてそのメディアは自分の思考の発展を約束してくれるのかを問うことである。それがメディアリテラシーの本質的な役割である。メディアリテラシーは個人の能力ではなく集団の能力であり、その能力の行使によって人間同士が考え続ける場がいつの間にか考えることを止めさせる場に変わるのを阻止する。

考え続けるには二重の意味で他者が必要だ。一つは思考そのものを動かし続けるために、もう一つは思考が存続し続ける場を確保するために。

偶然にもこの記事を読んでいるあなたは、いまどうやって考え続けているのだろう?それを分かち合うことは、考える場づくりの第一歩となるだろう。対話してくれるならば私は嬉しい。