学習に「能力」という言葉はいらない

学習に「能力」という概念は果たして必要なのだろうか。ぼんやりとそんなことを考えている。

一般的な意味での学習とは、何かができるようになる状態のことを指すことが多い。英語が話せるようになる。数式が解けるようになる。Rubyでソフトウェアを開発できるようになる、などなど。

在る能力を獲得するということは、実のところ過程にしか過ぎない。英語が話せるようになりたいのは、近いうちに留学するからかもしれない。数式が解けるようになりたいのは、それによって天体の動きを予測しようとしているからかもしれない。ソフトウェア開発をしたいのは、面白いゲームのアイデアを実現したいからかもしれない。在る能力を獲得したいという欲求の裏には、常に個々人の生活背景がある。

より厳密には、そもそも能力として言語化された学習内容は、人によって違う。英語が話せるとは、日常会話ができる程度なのか、論文を読みこなせるぐらいか、さらには研究者とディスカッションできるところまでなのか。学習者により求めるレベルは異なり、文脈も変わってくる。

しかし、学習の過程を「能力」という概念で描き出すと、やがてどんな学習目標もユニークさを失い、皆が同じパッケージを得ようとしているかのように考えだす。そうするとそのパッケージそのものに価値が生み出されるようになる。能力を獲得することが目的化していく。能力という言葉は、ユニークでその場限りの経験を「モノ」化していく。

英語ができさえすれば、数式が解けさえすれば、ソフトウェア開発ができさえすれば、人は幸せになるわけではない。本当に価値のある学習は、ユニークな自分の身体と経験を豊かにすることに向き合うことだ。他人と共有された学習目標や能力概念は、自分独自の人生の目標を構成するための部品にしかすぎない。

能力という概念を使わない学習過程の描き方というのは、果たしてありうるのだろうか。