小説を書きたいという欲求の正体

おそらく大多数の人が経験することであろうが、私は昔から小説を書きたいという衝動にかられることがあった。しかし、そのたびに私の欲求の捉えがたさに悩む。それは、小説という作品を作り上げることにはあまり関心が無いということだ。

つまり、ここでいう小説とは「散文で書かれた虚構の物語を伝える文章群」という意味ではなく、別の何かを指しているのだ。それを証拠に、私が小説を書きたいという欲求は小説を読んでいるとき以外に湧くことが多い。特に多いのは、映画を観ているときに印象的なショットに出会う時だ。あるいは、休日に人を待っているとき、適当なカフェで人びとが話しているのをぼうっと眺めているときにも湧くことがある。

なぜ「小説」を書きたいと思うのか。なぜ映画やブログ、短歌、演劇ではないのだろうか。それはおそらく、私の知る表現手法の中で、私が表現したいと思うを「何か」をもっとも表せているものが小説だからだろう(以降、混乱を避けるためにその私が作り上げたいと思う「小説」のことをXとおくことにする)。

私がXをしたいと思う瞬間に共通しているのは、そこに人間の個が立ち現われていることである。映画のなかで、その人にしかできないであろうタバコの吸い方とか、歩き方が何気なく描かれているとき。カフェの中で聞かされる他人のちょっとした会話のなかに、話し方の癖に気づいたとき。その時その場にいるその人だからこそ現れる姿というものに出会ったときに、私はどうやら触発されてXをしたいと考えるらしい。

小説を書くことと人間を描くことには密接な関係がある。映像や音楽や絵画には人間が出てこない作品はいくらでもあるが、人間が出てこない小説はほとんどない、と小説家の保坂和志は指摘していたが、個としての人間を描く表現形式としては小説が最も代表的であろう。であるからこそ私は、小説というジャンルを特に好まずとも、小説を書く欲求が湧いてしまうのだろう。

人間を描くということは、日常的な言語表現では難しい。何かを証明するなどの特定の目的をもった言説では、たとえそこで人間が描かれようとも、その人間は抽象的な概念としての「人間」であって、個としての人間は抜け落ちてしまいがちである。なぜなら、人間はいくつもの役割・感情・意思が同時に存在する複雑な存在であり、ある目的を果たす要素としてそのまま扱うには無駄や不確定要素が多すぎるからだ。かくして経済理論が人間を「経済人」として単純化するように、私たちは日常の言葉の中で自分たちを特定の目的のもとに単純化してしまう。

しかし、小説や映画に出てくる人間は違う。彼らは複数の感情や役割というものを同時に持ったまま描かれる。そうすることで、人間が人間のままでいられるのである。私が欲するのは、私が暮らしているなかでふいに心の中に浮かんだ人間たちを住まわせる場所を用意してあげること。それがXを為すということなのだ。

ここまで書いてきて、Xとはつまるところ「物語を語ること」なのではないか、と思い当たった。物語は必ずしも小説という形態をとるわけではないが、小説が代表的な表現手法のひとつである。そして重要なのは、物語とは語ることであり、必ずしも作品制作とイコールではないということだ。私は、語りたいのだ。作品という何か完結したものを作りたいというわけではない。ただ、それが現実であれ虚構であれ、私が人生の中で出会った素晴らしいものを、語りたい。そのための方法がわからずに悩んでいるのだ。

私の欲求を正確に表現するならば、「誰かの物語を語りたい」ということなのだろう。それでは、私のこの物語への欲求はいかに果たされるだろうか。それは今もって解決の糸口は見えてこない。

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