意味を与えたい

時々虚しくなる。なぜ自分はそう感じるのだろうか?それは私が何かを確実に生み出したという実感が無いからだ。作るということが、私にとっての生きる原動力になっていた。しかし今振り返ってみて、作るという行為から、何かが生み出されたという感覚がない。完成させた経験が無いのだ。達成感というものが私の人生から抜け落ちている。もちろん、私がこれまで生きてきて何も達成できなかったというつもりはない。発表や講演、プログラム、論文。達成の証拠と成るものはある。しかしそれは、いつだって私には満足の行くものではなかった。私が求めることと、私がしてきたことが一致する瞬間を、私はまだ体験していないのだ。

意識は物語を作るためにある、と伊藤計劃は言った。たしかにそうかもしれない。人間が起こったことについて語ることはすべて、物語という形式を取る。物語というのは、現実の中であれ虚構の中であれ常に、起こったことに意味を与える。私は意味を与えたいのかもしれない。私がしてきたこと、私が出会ったことに、私にしか作り出せない意味を与えたい。

そうして周りのすべてに私なりの意味を与えることができたとき、意味づけられた周りのものは私自身に意味を与えてくれる。人生の意味を求めるということは、探すことで達成できるのではなく、作ることで達成できる類の試練なのだ。

意味を与える最も単純な方法は、名前を付けることだと思う。名付けることは、対象に唯一性を与える。かけがえの無いものであるという観念が、意味の実体的な表現だ。私の周りは名無しばかり。私の周りには木と花と人びとでうめつくされる。私はそれらの固有名を知ることはなく、普通名詞でしか認識することはできない。

私の悩みは決して高尚なものでも難解なものでもない。至極単純なことで、他の人はもっと簡素に表現するだろう。意味を与えたい、意味を吹き込みたい。「意味」という言葉を「愛」に置き換えてもいいのかもしれない。でももっと根本的なニュアンスを含んでいる。情念に先立つ感覚。たしかにそこにかけがえの無いものがあるという感覚が欲しい。