物語はなぜ作られ続けるのだろうか

書店の扉を開けて、新刊の小説コーナーを眺めるたびにいつも思う。世界には既に一生かかっても読み切れないぐらい沢山の物語が既に出版されているのに、どうして未だに本が出版され続けられているのか、ということだ。

実用書や学問的な著作であれば、それが出版され続ける理由は分かる。学問は常に発展し続けるから、情報を更新し続けなければならない。実用書も同様に、変わりゆく社会に合せて対応していく必要はあるだろう。

小説は常に発展していくものでも、必ずしも現代社会に対応する類の著作ではない。面白い小説を読みたいのであれば、『嵐が丘』などの19世紀の英文学を読むのでも十分だ。面白い小説を作る技法は既に開発されつくされていて、一般的なエンタメは既存の名作のバリエーションでしかないのかもしれない。

小説というものが現代の人が作るものこそ重要であり、いまの小説を常に読むことが正しいという立場を想定する。そうであるならば、古典的な作品は時代遅れの無用なものだということになる。いま新たに出版された小説も、やがて昔の小説になる。そのとき、やがて誰にも読まれることがない作品を作り続けるという感覚に、作家たちは耐えうるのだろうか。

いや、そうではないのかもしれない。

物語は本来、音楽のようなものなのかもしれない。それは人の手によって演奏されなければ存在し得ない。スコアブックが音楽ではないように、書籍そのものは物語ではない。物語はそれを語り、それを聴く者同士の間でだけ存在するもので、語り終えれば消えていくもの。おそらく活版印刷が発明される以前の物語づくりは、そのような刹那的な行為だったのだ。

しかし、現代は音楽でさえ物として存在しうる。私はiPhoneに沢山の音楽を保存している。音声ファイルという形で。そこにはかつていた演奏家はいない。音楽が成立するために、聞き手の存在も不要だ。ただ音楽だけが自立して生まれることが可能だ。小説も同じようなものなのかもしれない。それは本来、人間の間でだけひととき生まれる刹那的で稀少な現象だった。それが今では、過度に耐久性を持つ文字と出版メディアによって自立してしまっている。泡のように生まれては消えていくはずだった物語は、世界に繋ぎ止められつづけている。まるで死すべき運命の人間が、不死の存在となってさまようように。

やがてモノ化された物語が世界中に残されていき、それはやがて人々の間に壁を作ってしまうかもしれない。物語を聴くために、人と出会う必要があったのが、モノを買うことで代用されるようになる。そうしていくうちに、物語の語り手であるためには、モノを生産しなければならないということになっていった。

いま私たちに必要なのは、本がうず高く積まれた場所ではなく、物語の語り手と出会える場所なのかもしれない。いつか消えること、いつか死ぬことを前提として、今を体感する場所が必要なのかもしれない。