「LGBT」への懸念

 
id:shigusa-t さんのエントリーを読んで、他人の価値観は自分の価値観とは異なるという当たり前の事実を実感した。
 
私個人は、性的嗜好そのものや性自認によって人が差別されることには反対の立場をとる。さらには、結婚は同性か異性かに関わらず認められるべきであり、支障があるならば結婚制度を改正すべきであるという立場である。さらに同性カップルが子どもを育てることについて、もしそこで子どもの発達に何らかの問題が発生するならば、それは社会の在り方に問題があり、同性カップルに問題があるわけではないし人々の選択を制限すべきでないと考えるのが望ましい。
 
以上から分かる通り、性的マイノリティに関する私の考えは id:t-shigusa さんと衝突する点がある。しかしながら基本的に性的嗜好性自認の自由を認めるという価値観は共有しており、意見が異なる点も現状認識の相違によるものであり、本質的なところではないとも思う。
 
こうした個別具体的な問題についてよりも、私が先の記事を読んで懸念を感じたのは、「LGBT」という用語についてである。
 
LGBTとは、レズビアン・ゲイ・バイセクシャルトランスジェンダーの略であり、一般的に性的マイノリティの問題を取り扱うときによく使われる用語である。しかし、よく考えてみればこの用語は概念上の問題がある。
 
まず、LGBはそれぞれ個人の性的嗜好を指す用語であり、「どの性を好むか」という性的パートナーの選択に関わる。一方でTは個人の性自認/性的役割を指す用語であり、「自分の本当の性はどれか」という自己同一性に関わる。つまり、問題領域の異なる用語が並列しており、まるでトランスジェンダー性的嗜好の問題であるかのように扱ってしまう危険性がある。
 
LGBが並列していることについても問題がある。ここでのLとGは基本的に同性「しか」愛せない人たちを指している一方で、Bは「どちらの性も」愛せる人々である。前者は異性愛がマジョリティな社会の中では性的パートナーの選択に制限が加えられやすい。しかし後者は、性的パートナーを選択する範囲は異性愛者より概念上は広い。両者が一つに取り扱われることは、LやGの人々が同性を愛することはその人の選択であると考えてしまう危険性がある。
 
また、Bであることにも、「男性も女性も好き」なのか、「男性か女性かに関わらず好き」なのかで異なる。後者は最近ではアセクシャルとかパンセクシャルという呼称が生まれているが、彼ら彼女らはそもそも性的嗜好のフレームでパートナーとの生活を語ること自体に違和感が生じるかもしれない。
 
ここまで読んで、私があまりにも細かいことにこだわっていると感じている方もいるかもしれない。しかし、私はむしろ根本的な問題だと考えている。なぜなら、LGBTとはあくまでも性的マイノリティについてのよく取り上げられる属性をまとめた便宜的な用語に過ぎないのに、現代では自己のアイデンティティを表明して政治活動をするために使われ、一方で人をマイノリティに追いやるレッテルとしても使われているからである。
 
LGBTという言葉を聞いて必ず想起する作品がある。志村貴子の漫画『放浪息子』である。この作品は「男の子になりたい女の子と女の子になりたい男の子」を主軸として様々な悩みを抱えた少年少女の群像劇である。この作品の特徴は、ゲイやレズビアンなど性的嗜好性自認を指す用語がほとんど出てこないことである。ここでは登場人物たちの性的嗜好性自認はあくまでもその人固有のものであり、特定のカテゴリに区分するようなことをしていない。そして、それがあるべき接し方だと思う。
 
LGBTと呼ばれる人々の自由を尊重することは重要であるが、もしかしたらLGBTという用語で語ること自体が彼ら彼女らの自由を制限しているかもしれない。私はそれが心配である。