海辺

わたしがわたしとして生きていくうえで、身につけるべき技術(Art)というものがある。人生を通り過ぎていった心象を留めておく技術もそのひとつだ。

その心象は、人間の形をしているときもあれば、風景の形をしているときもある。実在の何かと結びついているときもあれば、自己の心の中にしかない虚構の世界と結びついていることもある。現実か虚構かという区分は、「わたし」にとって重要ではない。

心象たちは日常のなかで現れては消えていく。心象の大半は気がついた時には行方が分からなくなってしまう。

明滅する心象の幾つかは、意識に掬われて文字や絵画に移しとられていくことがある。そうしておけば、あとから心象を蘇らせることができるからだ。

「わたし」というものは海辺にできた自然の模様のようなもので、環境の絶え間ない相互作用の中で生み出される模様のパターンである。それはちょっとした環境の変化で変調し、脆くも崩れてしまうものだ。

しかし、人間と海辺の模様を分かつ決定的な違いがある。それは、人間は環境そのものに手を加えることができるということだ。人間は自己の特定の「かたち」を保つために「堤防」を作り、波の激しさをも制御することができる。

「わたし」を構成する模様こそが心象であり、「堤防」はその心象を現実のモノで表現する手段なのだ。

堤防が何かは人によって異なる。ある人にとってそれは他愛のないおしゃべりかもしれない。日記かもしれない。小説やマンガのような物語かもしれない。あるいはダンスや演劇などの肉体運動かもしれない。いずれにしろその人にしか見ることのできない心象を現実に写しとる、その人なりのArtだ。

海辺で子どもが砂の堤防を作っている様子を大人が眺めるときのように、心象を表現し記録する行為は他愛もなく、無意味で、むなしい遊びに見えるかもしれない。

しかしその子どもにとっては、少なくともその一瞬に「わたし」が流れ去るか保つかの瀬戸際に立たされているのだ。

人間は生まれてから死ぬまで、心象の流れ着く海辺に佇んでいる。そのことを忘れたとき、その人はいつのまにか砂の城と一緒に、自分が流されていることに気づくだろう。

大抵の人間は、幼いころにしていたはずの堤防づくりを一度は忘れ、いつのまにか流され、流れ着いた先の海辺で堤防作りを再開する。そこからその人なりのArtが生まれるのだ。