パスカルに憧れる

私の憧れの人は3人いる。パスカルハンナ・アーレント、そして河野裕子だ。その一人、パスカルに触れてみたい。

パスカルは、数学者であると同時にモラリスト文学の代表者である。数学者としての様々な業績を放り出して信仰生活に邁進し、そのさなかに書かれた断章が後に『パンセ』というエッセイ集として出版された。パンセはモンテーニュの『エセー』とならんで西洋人文思想の重要な著作とされている。特に以下の文章が有名だ。

 人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。

 だから、われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある。われわれはそこから立ち上がらなければならないのであって、われわれが満たすことのできない空間や時間からではない。だから、よく考えることを努めよう。ここに道徳の原理がある。

パンセ (中公文庫)』 p204

『パンセ』はごく短い断章で多数を占めているが、そのひとつひとつは医療用メスのように鋭く、清廉で、日々生きるうえで読者が感じたこと、体験したことに新たな見解を与えてくれる。

私がパスカルに惹かれる理由は、その孤独の強度にある。『パンセ』はもともと護教論の著作を刊行されるための下書きであり、生前に発表されることはなかった。生前のパスカルは、当時の人々から見ればきっと奇異な人物だと思われていたに違いない。彼は科学者として華々しい業績があった。それなのに、その業績をあっさりと捨てて信仰に邁進し、独りで考えて書くことを選択した。結果としてパスカルの思考は西洋の人文思想に多大な影響を与えるわけであるが、だとしても彼の孤独さが侵されることはない。

なぜ彼は、賞賛されることよりも独りで考えることを選んだのか。それは先の「考える葦」の引用からも伺えるように、考えるということが人間の尊厳を守る重要な要素であったからだ。物質的な豊かさを得るために、道徳や哲学について考えるということは必ずしも必要ではない。いや、むしろ害悪ですらあることさえあるだろう。人びとは日々を生きるために考える時間を作ること、考えたことを伝えることを抑制しなければならないことがある。そんな凡人の私たちにとって、パスカルの孤独はなんと気高く尊く感じるのだろうか。

人間が自分自身について知り、考えるためには孤独を選ぶときが必要なのだ。

私がパスカルの成し遂げたような孤独を体現できるような人間ではないことは、ブログにテキストを垂れ流していることからも窺い知れるだろう。しかし、たとえどんなに自分の考えをひっきりなしに発信してまわる人であっても、その考えを言葉に移し替えるまでの時間がかならずある。その瞬間だけは、パスカルがいたはずの場所ーー人間が考えるときにいる場所にたどり着く可能性があるのだ。

私はパンセのようでありたい。自分自身を知るために言葉を尽くせるような人間になりたい。