ただ、思考だけが在る場所へ

自己否定については最近緩和されてきて、わりと積極的に他人と関われるようにもなってきた。ただ、そうなったからといって自分の根っこにあるどろどろしたもの、苛烈なものを出せるかどうかというのは別問題で。でもそれこそが自分のような気もしていて。 そういう部分もひっくるめて話せるレベルに親しい人は未だにいないし、じゃあネットでといっても本垢でそれをやると社会的にまずいことになりかねない。

■ - shigusa_t’s diary

自分と同じだ、と思った。

私の中には、この方がいう「どろどろしたもの、苛烈なもの」は特に無い。それでも、これまで本を読んだり考えたりしたことで溜め込まれてきた大切なものが私の心のなかにある。その大切なものを外に向けて出してみたいとは思うけれども、そのための適切な場が見つからない。その悩みは、この方が抱いているものと似ているものだと思う。

思考するということは、意味をみつけることである。そして、思考は語られなければ存在し得ない。政治哲学者ハンナ・アーレントは、遺作である『精神の生活〈上 第一部 思考〉』の中で述べている。つまり、人間が自己の人生の中に何らかの意味を見出すためには、何事かを語る場が必要だということだ。

重要なのは、意味は考える結果として生じるのであって、考える事そのものには意味が無いということである。ところが、誰かと何かを話すこと、語り合うことには、何らかの意味が要請される。雑談でさえ、自分が対話可能であることを示す平和的なサインとして機能する。日常の中で、思考のために語りうる場に出会うことは極めて稀である。なぜなら、日常のあらゆることは、生命活動という低レイヤーな部分も人間関係の構築という高レイヤーな部分も含めて、人間が社会の中で生きるための道具として従属されてしまうからである。

思考を現実の自分と結びつけて発信することで伴う苦しさの根源は、それによって現実がダメージを受けるからではない。自分そのものであるはずの思考が現実の因果関係の一要素に成り下がってしまうからである。

つまり人が考えるためには、無意味に語り続けながらも、そこから新たな意味を創りだすような、特別な場が必要だということだ。そこでは日常生活から隔絶され、自由に思考することが許され、そして思考が一定期間継続しうるように語り、そして誰かに伝わり得ることのできる手段が用意されていることである。古来から人類はそれを書物のネットワークによって作り上げてきた。それが今ではブログになり変わったのである。

そこでは日常的な意味でのコミュニケーションはおきない。ただ生み出された思考が誰かによって見られ、静かに他人の思考に呼応する。

そこでは肉体とつながった自己は現れない。ただ思考が立ち現われている。

そのような世界があることで、救われる人が一定数いる。わたしのように。