『ハーモニー』の世界はなぜ息苦しいのか

映画『ハーモニー』を観た。もう言い尽くされていることだし、作品を読むなり観るなりすればすぐ分かることだが、ハーモニーの世界の息苦しさの理由について改めて整理してみようと思う。

『ハーモニー』の世界をトァンはなぜ「息苦しい」と感じたのか。その理由は劇中でも使われている「公共的」という言葉に隠されている。
 
公共という言葉には大別して3つの意味がある。
 
1つ目は「公式なもの(official)」としての公共。国家の権力の下に認められた施設や言説や行動を指す。
 
2つ目は「共有されたもの(commons)」としての公共。公式であろうと非公式であろうと、すべての人が共有して使用するもののことを指す。環境を保護する活動は、この意味での公共的な行動である。
 
3つ目は「すべての個人を尊重する場(publicness)」としての公共。どんな人間であろうと参加し、個人の意思を表明することができる場所である。民主主義における公共的な議論とは、この意味の公共である。
 
『ハーモニー』の世界は核戦争によって現代の国家体制が崩壊し、人間の健康を至上とする「生府」によって管理されている。原作や映画に触れた人ならおわかりの通り、本作における「公共的」とは、「共有されたもの」としての公共である。それも人間の生命を共有物として捉えている。
 
本作における公共的な価値観が、真っ当なようでいて非常に凶悪に感じるのは、公共性に込められた様々な意味を排除していることにある。国家体制と個人の意思という両極端の概念は、共に過ちをもたらすものとして否定され、生府に属するすべての人間の生命をすべての人の共有物として保護する。
 
生府のしていることは「善い」ことなのかもしれない。しかし、個人は善だけでできているわけではない。良心とともに欲望や憎悪を持ち、それぞれが1人の身体の中に共生しながらある程度の調整を図っている。善で満たされた人間には葛藤がない。だから自らを見つめることもない。わたしを見つめる「わたし」は善で完成された世界には必要がない。commonsだけがあってpublicnessが無い状況とは、自意識の否定につながる。
 
善で完成された世界で生きることは完全なる孤独である。孤独を癒すには、ありのままの自分を見てくれる誰かが必要だ。たとえ物理的に他者と隔絶された状態でも、人は孤独から脱することができる。自分を省察する自己と共にいるからだ。しかし、善で満たされた世界では、そんな自己の居場所すら与えられない。
 
『ハーモニー』では、ここには自分の居場所が無いと言って自殺した少年の話が出てくる。ここでいう居場所とは、物理的な空間でも社会的な空間でもない。まさしく自分の身体の中の、内省の居場所が奪われていることを指している。自殺とは、身体から意識を解放させ、自由を求める最終手段だから、彼は自殺した。
 
『ハーモニー』の世界の息苦しさの正体は、世界を善で満たすことで、必ずしも善だけで構成されていない個人を消滅させようとした力にあるのだ。
 
そしてその力は、何も新しいことでは無い。善なる生活を求め、一人一人が教会の構成要素として生きることを求めるキリスト教思想から連綿と続く力なのである。本作のタイトルが、教会音楽から発生した技法である「ハーモニー」であること、映画の最後が、教会音楽で締めくくられるのはそういう意味合いを暗示している。
 

参考

 

 

ハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

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人間の条件 (ちくま学芸文庫)

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公共性 (思考のフロンティア)

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