本に頼らず考える

このブログを立ち上げた時に決めたルールがある。それは自分の考えを書くときに、可能な限り本や他人の思想に頼らずに書くようにするということである。

私は何か物を考える時、既存の本を必要以上に参照しようとする癖がある。その方がもっともらしいからだ。しかし、結局それは自分で考えるという作業を怠り、結論というゴールに辿り着くために、誰かが作った抜け道を使うことである。一見すると合理的な行為であるように見えるが、実は危険なことである。誰かが作った抜け道は、自分のゴールに通じているとは限らないからだ。

結論を導き出す能力を高めるためには、ときに既に得た知識を意図的に忘却することが必要なことがある。私にとってはこのブログがそのための修練の場所である。だから冒頭のルールを守ることにした。

1年ほど更新が途絶えてしまっていたが、この記事をもって更新を再開したい。

相違点

■ - shigusa_t’s diary

最終的な理想が実現された社会において、同性カップルが子供を持つことについては賛成できる。また、現状でも何か子供を幸せにしうる十分な目算があるなら問題ないと思う。 しかし、今無策に同性カップルが子供を持つことは、親を選ぶことのできない子供に対して、親が抱えたカルマを押し付けることに等しい。

■ - shigusa_t’s diary

先日の記事について、id:shigusa-t さんが言及してくださっている。

先日の記事については、急いで書いたこともあり言い過ぎているところがあッたかと思う。その点についてはお詫びしたい。

正確に言えば、 id:shigusa-t さんがおっしゃるとおり、基本的な思想については衝突が無いが、実際に今どう判断するかという点においては意見の相違があるということを言いたかった。

id:shigusa-t さんは、基本的には同性カップルが子供を持つことについて賛成するとしつつも、現在は「理想が実現された社会」ではないので現在は推奨できないという立場をとられている。この「推奨できない」という表現が具体的な行動として何を指すのかは、私には正確に把握できていない。ただ、他者の選択を直接的であれ間接的であれ制限するということを意味していると思う。

私はこれに対して、いまこの社会において、同性カップルが子供を持つことを制限できないと考えている。それが id:shigusa-t さんとの相違である。その理由は、他者の選択に介入する権利についてである。私は原則として、個人が他者の選択を制限すべきではないと考えている。制限が許されるのは、その選択自体に倫理的な問題がある場合のみである。同性カップルが子供を持つという選択をすることそれ自体に倫理的な問題はないとすれば、そこに私が他者の選択を制限する余地は無い。

おそらく id:shigusa-t さんが最も心配されているところの、子どもの幸せの問題については、難しいところである。ただ思うのは、たとえ異性カップルの間に生まれた子であっても、「子どもは自分の親を選べない」という点においては変わりがないということである。子どもの幸せを他者が奪うときの理由付けはいくらでも考えられ得る。私にできる適切なことは、誰かの子供であることの是非を判断することよりも、誰の子どもであったとしてもその生を積極的に肯定し、幸せになる手助けをすることだと思う。

「LGBT」への懸念

 
id:shigusa-t さんのエントリーを読んで、他人の価値観は自分の価値観とは異なるという当たり前の事実を実感した。
 
私個人は、性的嗜好そのものや性自認によって人が差別されることには反対の立場をとる。さらには、結婚は同性か異性かに関わらず認められるべきであり、支障があるならば結婚制度を改正すべきであるという立場である。さらに同性カップルが子どもを育てることについて、もしそこで子どもの発達に何らかの問題が発生するならば、それは社会の在り方に問題があり、同性カップルに問題があるわけではないし人々の選択を制限すべきでないと考えるのが望ましい。
 
以上から分かる通り、性的マイノリティに関する私の考えは id:t-shigusa さんと衝突する点がある。しかしながら基本的に性的嗜好性自認の自由を認めるという価値観は共有しており、意見が異なる点も現状認識の相違によるものであり、本質的なところではないとも思う。
 
こうした個別具体的な問題についてよりも、私が先の記事を読んで懸念を感じたのは、「LGBT」という用語についてである。
 
LGBTとは、レズビアン・ゲイ・バイセクシャルトランスジェンダーの略であり、一般的に性的マイノリティの問題を取り扱うときによく使われる用語である。しかし、よく考えてみればこの用語は概念上の問題がある。
 
まず、LGBはそれぞれ個人の性的嗜好を指す用語であり、「どの性を好むか」という性的パートナーの選択に関わる。一方でTは個人の性自認/性的役割を指す用語であり、「自分の本当の性はどれか」という自己同一性に関わる。つまり、問題領域の異なる用語が並列しており、まるでトランスジェンダー性的嗜好の問題であるかのように扱ってしまう危険性がある。
 
LGBが並列していることについても問題がある。ここでのLとGは基本的に同性「しか」愛せない人たちを指している一方で、Bは「どちらの性も」愛せる人々である。前者は異性愛がマジョリティな社会の中では性的パートナーの選択に制限が加えられやすい。しかし後者は、性的パートナーを選択する範囲は異性愛者より概念上は広い。両者が一つに取り扱われることは、LやGの人々が同性を愛することはその人の選択であると考えてしまう危険性がある。
 
また、Bであることにも、「男性も女性も好き」なのか、「男性か女性かに関わらず好き」なのかで異なる。後者は最近ではアセクシャルとかパンセクシャルという呼称が生まれているが、彼ら彼女らはそもそも性的嗜好のフレームでパートナーとの生活を語ること自体に違和感が生じるかもしれない。
 
ここまで読んで、私があまりにも細かいことにこだわっていると感じている方もいるかもしれない。しかし、私はむしろ根本的な問題だと考えている。なぜなら、LGBTとはあくまでも性的マイノリティについてのよく取り上げられる属性をまとめた便宜的な用語に過ぎないのに、現代では自己のアイデンティティを表明して政治活動をするために使われ、一方で人をマイノリティに追いやるレッテルとしても使われているからである。
 
LGBTという言葉を聞いて必ず想起する作品がある。志村貴子の漫画『放浪息子』である。この作品は「男の子になりたい女の子と女の子になりたい男の子」を主軸として様々な悩みを抱えた少年少女の群像劇である。この作品の特徴は、ゲイやレズビアンなど性的嗜好性自認を指す用語がほとんど出てこないことである。ここでは登場人物たちの性的嗜好性自認はあくまでもその人固有のものであり、特定のカテゴリに区分するようなことをしていない。そして、それがあるべき接し方だと思う。
 
LGBTと呼ばれる人々の自由を尊重することは重要であるが、もしかしたらLGBTという用語で語ること自体が彼ら彼女らの自由を制限しているかもしれない。私はそれが心配である。

海辺

わたしがわたしとして生きていくうえで、身につけるべき技術(Art)というものがある。人生を通り過ぎていった心象を留めておく技術もそのひとつだ。

その心象は、人間の形をしているときもあれば、風景の形をしているときもある。実在の何かと結びついているときもあれば、自己の心の中にしかない虚構の世界と結びついていることもある。現実か虚構かという区分は、「わたし」にとって重要ではない。

心象たちは日常のなかで現れては消えていく。心象の大半は気がついた時には行方が分からなくなってしまう。

明滅する心象の幾つかは、意識に掬われて文字や絵画に移しとられていくことがある。そうしておけば、あとから心象を蘇らせることができるからだ。

「わたし」というものは海辺にできた自然の模様のようなもので、環境の絶え間ない相互作用の中で生み出される模様のパターンである。それはちょっとした環境の変化で変調し、脆くも崩れてしまうものだ。

しかし、人間と海辺の模様を分かつ決定的な違いがある。それは、人間は環境そのものに手を加えることができるということだ。人間は自己の特定の「かたち」を保つために「堤防」を作り、波の激しさをも制御することができる。

「わたし」を構成する模様こそが心象であり、「堤防」はその心象を現実のモノで表現する手段なのだ。

堤防が何かは人によって異なる。ある人にとってそれは他愛のないおしゃべりかもしれない。日記かもしれない。小説やマンガのような物語かもしれない。あるいはダンスや演劇などの肉体運動かもしれない。いずれにしろその人にしか見ることのできない心象を現実に写しとる、その人なりのArtだ。

海辺で子どもが砂の堤防を作っている様子を大人が眺めるときのように、心象を表現し記録する行為は他愛もなく、無意味で、むなしい遊びに見えるかもしれない。

しかしその子どもにとっては、少なくともその一瞬に「わたし」が流れ去るか保つかの瀬戸際に立たされているのだ。

人間は生まれてから死ぬまで、心象の流れ着く海辺に佇んでいる。そのことを忘れたとき、その人はいつのまにか砂の城と一緒に、自分が流されていることに気づくだろう。

大抵の人間は、幼いころにしていたはずの堤防づくりを一度は忘れ、いつのまにか流され、流れ着いた先の海辺で堤防作りを再開する。そこからその人なりのArtが生まれるのだ。

小説を書きたいという欲求の正体

おそらく大多数の人が経験することであろうが、私は昔から小説を書きたいという衝動にかられることがあった。しかし、そのたびに私の欲求の捉えがたさに悩む。それは、小説という作品を作り上げることにはあまり関心が無いということだ。

つまり、ここでいう小説とは「散文で書かれた虚構の物語を伝える文章群」という意味ではなく、別の何かを指しているのだ。それを証拠に、私が小説を書きたいという欲求は小説を読んでいるとき以外に湧くことが多い。特に多いのは、映画を観ているときに印象的なショットに出会う時だ。あるいは、休日に人を待っているとき、適当なカフェで人びとが話しているのをぼうっと眺めているときにも湧くことがある。

なぜ「小説」を書きたいと思うのか。なぜ映画やブログ、短歌、演劇ではないのだろうか。それはおそらく、私の知る表現手法の中で、私が表現したいと思うを「何か」をもっとも表せているものが小説だからだろう(以降、混乱を避けるためにその私が作り上げたいと思う「小説」のことをXとおくことにする)。

私がXをしたいと思う瞬間に共通しているのは、そこに人間の個が立ち現われていることである。映画のなかで、その人にしかできないであろうタバコの吸い方とか、歩き方が何気なく描かれているとき。カフェの中で聞かされる他人のちょっとした会話のなかに、話し方の癖に気づいたとき。その時その場にいるその人だからこそ現れる姿というものに出会ったときに、私はどうやら触発されてXをしたいと考えるらしい。

小説を書くことと人間を描くことには密接な関係がある。映像や音楽や絵画には人間が出てこない作品はいくらでもあるが、人間が出てこない小説はほとんどない、と小説家の保坂和志は指摘していたが、個としての人間を描く表現形式としては小説が最も代表的であろう。であるからこそ私は、小説というジャンルを特に好まずとも、小説を書く欲求が湧いてしまうのだろう。

人間を描くということは、日常的な言語表現では難しい。何かを証明するなどの特定の目的をもった言説では、たとえそこで人間が描かれようとも、その人間は抽象的な概念としての「人間」であって、個としての人間は抜け落ちてしまいがちである。なぜなら、人間はいくつもの役割・感情・意思が同時に存在する複雑な存在であり、ある目的を果たす要素としてそのまま扱うには無駄や不確定要素が多すぎるからだ。かくして経済理論が人間を「経済人」として単純化するように、私たちは日常の言葉の中で自分たちを特定の目的のもとに単純化してしまう。

しかし、小説や映画に出てくる人間は違う。彼らは複数の感情や役割というものを同時に持ったまま描かれる。そうすることで、人間が人間のままでいられるのである。私が欲するのは、私が暮らしているなかでふいに心の中に浮かんだ人間たちを住まわせる場所を用意してあげること。それがXを為すということなのだ。

ここまで書いてきて、Xとはつまるところ「物語を語ること」なのではないか、と思い当たった。物語は必ずしも小説という形態をとるわけではないが、小説が代表的な表現手法のひとつである。そして重要なのは、物語とは語ることであり、必ずしも作品制作とイコールではないということだ。私は、語りたいのだ。作品という何か完結したものを作りたいというわけではない。ただ、それが現実であれ虚構であれ、私が人生の中で出会った素晴らしいものを、語りたい。そのための方法がわからずに悩んでいるのだ。

私の欲求を正確に表現するならば、「誰かの物語を語りたい」ということなのだろう。それでは、私のこの物語への欲求はいかに果たされるだろうか。それは今もって解決の糸口は見えてこない。

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パスカルに憧れる

私の憧れの人は3人いる。パスカルハンナ・アーレント、そして河野裕子だ。その一人、パスカルに触れてみたい。

パスカルは、数学者であると同時にモラリスト文学の代表者である。数学者としての様々な業績を放り出して信仰生活に邁進し、そのさなかに書かれた断章が後に『パンセ』というエッセイ集として出版された。パンセはモンテーニュの『エセー』とならんで西洋人文思想の重要な著作とされている。特に以下の文章が有名だ。

 人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。

 だから、われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある。われわれはそこから立ち上がらなければならないのであって、われわれが満たすことのできない空間や時間からではない。だから、よく考えることを努めよう。ここに道徳の原理がある。

パンセ (中公文庫)』 p204

『パンセ』はごく短い断章で多数を占めているが、そのひとつひとつは医療用メスのように鋭く、清廉で、日々生きるうえで読者が感じたこと、体験したことに新たな見解を与えてくれる。

私がパスカルに惹かれる理由は、その孤独の強度にある。『パンセ』はもともと護教論の著作を刊行されるための下書きであり、生前に発表されることはなかった。生前のパスカルは、当時の人々から見ればきっと奇異な人物だと思われていたに違いない。彼は科学者として華々しい業績があった。それなのに、その業績をあっさりと捨てて信仰に邁進し、独りで考えて書くことを選択した。結果としてパスカルの思考は西洋の人文思想に多大な影響を与えるわけであるが、だとしても彼の孤独さが侵されることはない。

なぜ彼は、賞賛されることよりも独りで考えることを選んだのか。それは先の「考える葦」の引用からも伺えるように、考えるということが人間の尊厳を守る重要な要素であったからだ。物質的な豊かさを得るために、道徳や哲学について考えるということは必ずしも必要ではない。いや、むしろ害悪ですらあることさえあるだろう。人びとは日々を生きるために考える時間を作ること、考えたことを伝えることを抑制しなければならないことがある。そんな凡人の私たちにとって、パスカルの孤独はなんと気高く尊く感じるのだろうか。

人間が自分自身について知り、考えるためには孤独を選ぶときが必要なのだ。

私がパスカルの成し遂げたような孤独を体現できるような人間ではないことは、ブログにテキストを垂れ流していることからも窺い知れるだろう。しかし、たとえどんなに自分の考えをひっきりなしに発信してまわる人であっても、その考えを言葉に移し替えるまでの時間がかならずある。その瞬間だけは、パスカルがいたはずの場所ーー人間が考えるときにいる場所にたどり着く可能性があるのだ。

私はパンセのようでありたい。自分自身を知るために言葉を尽くせるような人間になりたい。

浅はかなPDCA

anond.hatelabo.jp

「頑張る」をベースにしたPDCAは最悪である、何度やっても「頑張る」以外のアクションが出ず、具体的に何が良くて何が悪かったのかを把握しないままになってしまうから、という話を聞いた。確かにそうだと思う。これ以外にも、浅はかなPDCAもまた悪い展開を導くことがある。

私は昔から対人能力が低かった。だから私は早期からPDCAを心がけた。まず、必ず挨拶することを覚えた。笑顔を忘れないことを覚えた。雑談のトピックとして、天気の話を用意していくことを覚えた。話し手ではなく、聞き手でいることを心がけた。相手の価値観や主張をすぐには否定せず、受け取る姿勢を覚えた。私は過去のコミュニケーション経験から何が悪かったのかを考え、自分にかけている行動を身につけるようにした。その結果として、初対面の人に普通の社会人であると思われる程度には対人能力が向上したと思う。

しかし、これはすべて小手先の改善でしか無い。対人能力で重要なのは、人と会うのが好きになること、人の感情に共感すること。行動ではなく認知にウェイトを占める能力だ。私は表面的な改善を行うことはできたが、これらの根本的な認知についてのPDCAを怠った。

その結果、わたしは社会人としての振る舞いをすることができるが、その最中の私は好きになることや共感することもなく、自分の無感動と矛盾する振る舞いに苦しむはめにおちいった。自分の悩みを開示することは、表面的には失敗のもとになるので、それもできない。だから、私は人と会う時、笑いながら心のなかでは悲鳴をあげていることがある。表面的な部分を改善し、本質をみないことは、自壊を導くのである。

最近では社交的でありながらも心が悲鳴をあげないような場面のイベントを選び、参加している。しかしながら、これも浅はかなPDCAの結果にしかすぎない。人に対する思いそのものを考えることがなければ、この悪循環は変わらないだろうな、と思う。